…さて…今週の当番ブログの責任は十分(長さで勝負)過ぎるほど努めておりますが、今朝、愛読している「致知」2月号に素晴らしいオハナシがありましたので転載させていただきます…
…じわじわっと沸き立つ感動と、流れる直前で止まる涙との不思議なコラボレーション…
…オハナシの主人公は特別に目立つ訳でもなく、顕著な活躍をしたした訳でもありませんが、ここにも見事な生き方をし、その当人を支えた素晴らしい母親との二人三脚のお話…紹介せずにはおられませんので、今週当番ブログのオマケ的「本命」としてご紹介します…
…脳性麻痺ライター 東谷 瞳…
昭和60年三重県生まれ。平成19年三重大学教育学部教員養成課程障害児教育コースを卒業、三重県庁に就職。令和7年退職。現在は小説の執筆や講演、市民活動団体「Flower」の運営などに当たる。著書に『あきらめが生む輝き』がある。
…記事のタイトルは「困難を受け入れ、人生を輝かせる」…です(-_-)
生まれつき脳性麻痺を患い、手足と言語に障がいを抱える東谷瞳氏。様々な制約の下、普通学校への進学、就職、子育て、作家業など、挑戦を続けてきた。障がいという逆境に行く手を阻まれながらも、生きる道を求め続けたその歩みに、自らを磨くヒントを探る。

──先日、東谷さんから弊社宛てにいただいたメールの内容に感動しました。
2025年に18年勤めた三重県庁を退職したのですが、在職中は『致知』の言葉に何度も力をもらいました。その御礼のつもりで感謝のメッセージを綴ったところ、思いがけず今回の取材に繋がり、とてもびっくりしています。
──ご自身の障がいのことも書かれていましたね。
…はい。私は生まれつき脳性麻痺を患っています。生まれる時にうまく呼吸ができず、いわゆる仮死産で生まれたんです。その後遺症で、手足と言語に障がいが残りました。
右手は握ったままほとんど開かず、使うのは左手が中心です。
…歩行はとても時間がかかる上、足に大きな負担がかかるので、普段は車いす生活を送っています。言語も聞き取りづらいですが、初対面の相手に何とか聞き取っていただけるほどの会話は可能です。
──不自由を強いられながらも、18年にわたってお仕事を続けられたことに驚嘆します。退職した現在はどのように過ごされているのですか。
…生まれ育った三重県で、母と小学5年生の娘と3人で暮らしています。夫とは離婚して、現在は養育費の援助を受けつつ、同居する母の全面的な協力のもと子育てを行っています。
…県庁を退職後は、2作目となる小説の執筆や講演、健常者と障がい者が交流するためのコミュニティ「Flower」の運営のほか、趣味で車いすツインバスケットボールを行ったり、家族とゆっくり過ごす時間に充てているんです。
…特に作家業は、言語に障がいを持つ私にとって、自分の思いをありのままに伝える大切な手段であり、生き方そのものだと捉えています。
──様々なことに挑戦されているのですね。
…「諦める中で見つける喜び」をモットーにして生きてきました。
…障がいを抱えながらも、自分らしく楽しく生きていきたい。障がい者やそのご家族をはじめ多くの方に、困難があっても自分らしく生きる道を見つけることは必ずできると、伝えていきたいと思っています。
──幼少期はどのように過ごされたのでしょうか。
…女手一つで育ててくれた母の方針で、幼少期からできる限り健常者と同じ環境で生活を送ってきました。当然、全く同じようにはいかないですが、そこには、将来の選択肢を狭めたくないという母の強い願いがありました。
…保育園のかけっこでは、転ぼうと、他の子とどんなに差がつこうと、「走り切りなさい!」と言うほど厳しい母でしたから、周りからはよく「鬼母や」と言われていましたね(笑)。
…就学に際しては養護学校への進学を勧められましたが、母は頑として普通学校への入学を選び譲りませんでした。
──きっとお母様にも相当の不安や葛藤があったでしょうね。
…私以上に大変だったと思います。現実問題、障がいを持つ分、他の子と足並みを揃えるために、たくさんの工夫が必要でした。そんな時にいつも私を助けてくれたのが、母が用意してくれる便利グッズでした。
…例えば、着替えが困難な私のために、制服にはスナップをつけて簡単に着替えられるような加工を施してくれましたね。
…他にも、指の不自由な方が使うリコーダーや視覚障がい者用のそろばんなど、私が不自由なく日々を送れるように、時に全国各地から道具を取り寄せてくれました。そうした母の支えのおかげで、普通学校に通い続けることができたのです。
上の写真が学生時代、東谷さんを支えた「便利グッズ」、目をこらして見てね(-.-)
──お母様の支えが大きな力になっていたのですね。
…ところが、母の手を借りることのできた就学前までとは違い、小学生になると、自分一人でやらなければならないことも増え、周りの子との差が顕著に表れるようになりました。
…「あの子変やな」と見下されることも多くなり、ちょっとしたことで虐めや差別を受けるようになったのです。歩き方や話し方を真似されたり、露骨に「汚い」「あいつの上にノートを出すのは嫌や」と言われたり、苦しかったですね。
…また、不自由な私を気遣って助けようとしてくれる友達がいても、当時の私はその助けを素直に受け入れることができませんでした。プライドが邪魔して、誰かの助けが必要な自分を認めることができなかったんです。
──障がいを受け入れることができずにいた。
…心境に変化が生まれたのは、高校2年生の時、車いすを使い始めてからでした。
…電車通学だった当時は足への負担が大きく、手術とリハビリで入退院を繰り返していました。2年生の時に受けた手術の後、なかなか状態が好転せず学校に通えない時期があり、どうすれば学校に戻れるかと考えた末に、車いすを使うことにしました。
…当時は「車いすは全く歩けない人が使うもの」というイメージがありましたし、私も健常者に後れをとるまいと、むきになっていたので、車いすに乗るという決断はとても勇気の要るものでした。
…そうしてやむを得ず始めた車いす生活でしたが、使い始めると、たくさんのよい効果がありました。
…使う前は、長い廊下を歩くだけで疲れてしまい授業中に眠ってしまったり、部活動に参加したくても移動だけでエネルギーを使い果たし参加できなかったり、学校生活を楽しみたいのに、疲労が常に邪魔をしていました。
…ところが車いすを使うことで、歩くために使っていた体力を授業や部活動に充てることができ、学校生活をより楽しめるようになったのです。この経験が、後に障がいを受け入れる上で大きなきっかけになりました。
──それまでの価値観を覆す体験をされた。
…それまでの私は、大変なことや苦しいことは乗り越えるべきもの、頑張り続けることが大切だとばかり思い込んでいました。だからこそ、歩くことを諦めるのは、逃げることだとさえ思ったんです。でも、時にはできないことを受け入れ、折り合いをつけながら、生きる道を探し続ける大切さを学んだように思います。
──高校卒業後はどのように過ごされましたか。
…養護学校の教員を目指して、三重大学教育学部教員養成課程障害児教育コースに進学しました。障がい者が自らの障がいをいかに受け入れ、目標を見つけ、有意義に過ごすかという課題に真剣に向き合いたいと考えたからです。
…4年間の大学生活では、教員になるための勉強をしながら、ギターマンドリンクラブに所属して仲間と共に充実した日々を送りました。車いすでの教育実習は過去に例がないと言われるほど大変でしたが、多くの先生方からの助言を受けながら、無事に養護学校と中学数学の教員免許を取得することができました。
──夢への階段を着実に上がっていかれた。
…しかし、喜んだのも束の間、満を持して迎えた教員採用試験では、成績面で決定的な不足があったわけではなかったものの、最終的に採用には至りませんでした。板書など教員に求められる業務を考えた時、自身の身体の状態が影響したのではないかと受け止めました。
…ただし、その理由が明確に示されたわけではなく、答えの出ない問いを抱えたまま立ち止まる時間が続きました。やがて、教壇に立つことだけが人を支える道ではないと気づき、教員以外の形で誰かの力になれないかと考えるようになったのです。
…とはいえ、母子家庭で就職浪人をする余裕はないため、ひとまず仕事を探すことにしました。そこで知人から勧められたのが三重県庁の職員でした。身体障がい者採用選考試験を経て、新卒で三重県庁へ就職しました。
──県庁では、主にどのような業務に従事されていたのですか。
主に経理、文書作成、データ管理などの内部事務を担当しました。ただ、一度だけ電話対応の多い部署に配属になり、その2年間はキャリアの中でも最大の逆境でした。
私は電話対応ができないので、必然的に周りの方に頼ることになります。そのため、初めは負担が大きくなった周りの方たちの目も厳しく、いかに部署に貢献すべきか葛藤する日々を送りました。
──どのようなことを心がけておられたのですか。
…誰でもできることですが、コピー用紙やファックス用紙を率先して補充したり、他の人の手が回っていない雑務など、些末でもできることを探して一所懸命取り組みました。その時大事にしていたのが、鍵山秀三郎さんの「凡事徹底」という言葉です。ただ助けを求めるだけではなく、自分にできる最大限のことをしようと心に決めていたんです。
──できることを徹底していく。
…また、プライベートで遠方へ出かけたら、同僚に渡すお土産に手紙を添えてみたり、そういった小さいことが幾つも積み重なって、だんだんと認めてもらえるようになりました。
…思えば幼少期から、私が不自由なく過ごせるように工夫してくれた母の背中を見ていたことも大きかったと思います。
──その後の人生で転機となったことはございますか。
…26歳の時に、大学時代から運営する「Flower」の活動で知り合った仲間と結婚し、29歳で娘を出産しました。ただ、障がいのこともあり、生まれたばかりの頃は母親らしいことがほとんどできずにひどく悩んだことがありました。
…抱っこしたくても腕が動かず、授乳も母にお願いするしかない。泣いているのにすぐに駆けつけることができないことが苦しくて、苦しくて。何度も自分を責めたものです。
──もどかしい日々を過ごされた。
…他の母親は当たり前にできることが、なぜ私にはできないの……。
…そんな思いが心を蝕み、できないことばかりが目について、どんどん自信を失っていきました。
…でも、ある日気づいたんです。私にもできることがある。それは、娘の様子を見て感じたこと、夫や家族への感謝、悔しい気持ちを全部文字に残すこと、すなわち「育児日記」でした。
…「きょう、初めて笑った気がする」
…震える手で書いた最初の一行はいまも忘れません。たったそれだけの短い言葉でしたが、この時初めて、母親として娘と繋がっている実感を得ることができたんです。自分なりの母親としてのあり方を見出したその瞬間、胸の中に少しだけ光が差した気がしました。
──自分なりの子育ての方法を確立されたのですね。
…育児日記は、いつか子どもに渡したい未来への手紙でもあります。いつかこの日記を読んだ娘に、「愛されていた自分」を感じてほしい。母がどんな思いであなたを見ていたのかを知ってほしい。そして、どんな形でも親子は繋がっているのだと気づいてほしい。そう願ってやみません。
…また、自らの子育てを通じて、母への感謝が一層強いものになりました。生まれてこのかた、どんな時も変わらず温かく支え、たくさんの経験をさせてくれました。時々母が、「昔、友人から『瞳ちゃんはあなたを選んで生まれてきたんだよ』って言われて、救われたんだ」と話してくれるんです。その言葉を聞くと、いまでも胸がいっぱいになります。
…私のほうこそ、母のもとに生まれてくることができて心から幸せに思っています。
今日まで二人三脚で歩まれたお母様と
──数多くの困難を乗り越えてこられた東谷さんが、人生で大切にされてきたことを教えてください。
…流れに沿って生きることが大事だと思います。以前、『致知』を紹介してくれた尊敬する経営者から、松下幸之助さんのこんな言葉を教えていただきました。
「逆境は尊い。しかしまた順境も尊い。要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きることである」
…この言葉に出合った時、不思議と肩の力が抜けたような感覚を覚えました。状況に抗って頑張り続けることだけが正義だと思っていたのですが、順境も逆境も、とにかく身に起こるすべてのことを受け入れる。その素直さこそが大切なのだと気づかされたからです。
──与えられた環境で全力を尽くす。まさに「是の処即ち是れ道場」に通じる教えですね。
…ええ。考えてみれば、できるようになることばかりを追い求めるなら、障がいを持つ私は何もできないんです。でもそうではなくて、できることに目を向け一所懸命に取り組んでいく。そうすれば、すべての困難が自分を成長させる糧になると私は信じています。
…教員という夢は叶いませんでしたが、有り難いことに、いまでは三重県や全国の障がい者支援関連研修、学校などで講演をする機会に恵まれています。また、昨年(2025年)7月には、自分の実体験をもとにしたフィクション小説『あきらめが生む輝き』を自費出版することができました。これからも講演や書籍を通して、困難と共に生きていく術、困難の中からこそ得られる喜びを伝えたいと願っています。
…(-.-)…というオハナシです…因みに、本人が自費出版した『あきらめが生む輝き』は市販されていませんが、Kindleでの無料購読が可能です…
…まっこと、「是の処、即ち是れ道場」…いずこにあっても精一杯に生きれば必ず花は咲くようです…花から花へ移る蝶にならないよう身を引き締めましょうかね…(=_=)
…ということで、次の出番は2ヶ月先です…その間は、自由奔放、唯我独尊、極上の自堕落を楽しみましょう…と、予定していたのですが、読みたい書籍がアマゾンから届く届く…これは身から出たサビ、懐から出るサビた現ナマ、辛かね~(>_<)
by 山さんでした…
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