…三重・和歌山・奈良の旅、三日目の旅めくりの前に、プロローグ的にトランプ物語から無縁の境地にお誘いしたく、愛読する月刊誌「致知」から、これぞ「愛」だ…と言える人間劇場をご紹介しましょう…
…主人公は、もと広島刑務所の刑務官で、第42代横浜刑務所長を最後に退官された、亀井 (ひろふみ)さんが、死刑囚となったある男性との交流を綴った物語に胸を打たれましたので転載します…

…私が横浜刑務所長を最後に、38年間に及ぶ刑務官としての仕事に終止符を打ったのは平成12年のことでした。この間、多くの受刑者を更生に導くために力を尽くしてきましたが、改めて振り返ると、刑務官の仕事を選び、その道を歩いてきたことが自分でも不思議でならないのです。今日までの85年の人生も、何かを自分の意思で計画し、実行してきたという意識はありません。
…まさにその時、その時、よき人たちとの出会いによって運命が運ばれてきたというのが実感であり、それはもしかしたら人智を超えた大いなる働きによるものなのかもしれません。これからお伝えする私の体験談が、いささかでも皆様の人生のお役に立つとしたなら、『致知』を愛読する者の一人としてこれ以上の喜びはありません。
…私は昭和15年、現在の広島県山県郡安芸太田町の社家に、下半身不随の父親と片目を失明した母親のもとに生まれました。
…父親は五体満足に誕生し、尋常小学校を出ると大工見習いとなりました。その頃、目の当たりにした新築の地鎮祭の様子は父の人生を決定づけるものとなりました。
…「この世の中で事業を始める時、神様をお祀りする心、感謝する心を持ち、皆を幸せにしようという思いで始めれば、結果は必ずよきほうに向いてくる」という少年期の気づきは、父の神道への目覚めを促すものでもあったのです。
…その頃から父は「人は大神様に生かされて生きている。我が命は大神様からの授かりもの」という感謝の念を忘れずに生活することを強く意識するようになりました。やがて「祝詞の書ける棟梁となり、精魂を込めた地鎮祭を行いたい」との思いから、忙しい大工仕事の傍ら神道の勉強を始めるのです。
…しかし、21歳の時にリウマチを発症、下半身不随の重度身体障碍者になってしまいました。闘病生活は約10年に及びましたが、その試練はさらに深い信仰へと父を導き、日々の必死の祈りが聞き入れられたのか、家の中では両腕で上体を支えて動き回るなど日常生活はほぼ自力でできるまでに回復したのですから、奇跡と言ってよいかもしれません。
…父は下半身不随でもできる仕事として番傘や提灯などの製造を手掛けるようになり、一方で「いただいた命が尽きるまで世のため人のために尽くしたい」と使命感を奮い立たせて、神職の資格を取るための勉強を本格的に始め、ついにその資格を得て人々の救済に力を入れるようになりました。
…「人間は皆、それぞれの分野で果たすべき責任(使命)を背負ってこの世に生まれている」という確信を得た父は地域の人々をとても大切にし、社会の隅で苦しみ悲しむ人たちがいつも我が家を訪れては、涙ながらに父に相談していた姿を子供心に覚えています。
…その父が人生の指針としていたのが、出雲教の祝詞(のりと)の一節でした。〈誓詞〉
三勤
一、信義を以て人に交わり広く隣人をいつくしむ事
二、事にあたりて和を思い謙譲を旨とする事
三、常に神明の照覧を畏みて陰徳を積む事父はこの言葉をその如く実践するばかりか、5人の子供たちにも教えてくれました。その教えは私の魂にも深く浸透し、いつの頃からかこの言葉を信条として人生を歩んできたように思います。
…母は父の16歳年下で、清貧に甘んじつつ職人や神職として生きる父を支え、愛情たっぷりに我々きょうだいを育ててくれました。
…母についても忘れられない思い出があります。昭和20年8月6日朝、友達と一緒に田んぼの畦道でバッタ獲りに興じていると、一瞬ピカッという閃光を感じました。しばらくすると雲のようなものが棚引いてきて辺りが暗くなったかと思うと、焼けた紙屑やお札、裂けた木馬の頭部などがバラバラと落ちてきて、何とも言えない臭いの黒い雨が一気に降り始めたのです。約20キロ離れた広島市内に原爆が投下されたのでした。
…私は黒い雨に打たれた水槽の水を思わず口にしてしまいましたが、父が吐き出させてくれ、苦しみながらも一命を取り留めました。
…数日後、何やら外が騒がしいので覗いてみると、全身焼けただれた3、4人の若い母親が小さな子供たちを連れ、食料や水を求めて山間部の私たちの村にやってきていました。その姿を見た母はすぐに「お兄ちゃんは水をあげなさい。お姉ちゃんはお湯を沸騰させておきなさい」と私たちきょうだいに指示し、母はトウモロコシを採りに畑に行きました。
…このトウモロコシは母と私が2人で開墾した小さな畑で穫れたもので、母はそれを茹でて輪切りにし、家族に分け与えました。自分たちが育てたトウモロコシを食べるのを楽しみにしていた私は、思わず「あれをあげたら、僕たちが冬に食べるのがなくなるよ」と愚痴をこぼしました。
…すると、声こそ大きくはありませんでしたが、母は烈火の如く怒ったのです。
…「あなた、何を言っているんですか。困っている人を助けるのが先でしょうが。あの人たちは家を焼かれて、夜を徹して命からがらここまで逃げてこられたんです。私たちの家に休んでいただいたのもご縁と感謝して助けてあげるべきでしょうが。いつもお父さんがお話しくださるように、人間は人を幸せにするために尊い命を授かってこの世に生まれてくるのだから、困っている人を見かけたら助けなくてはならないのです」
…母は被災した家族に温かい励ましの言葉を懸けて送り出しました。別れ際には若いお母さんたちが泣きながら母に合掌し、母は姿が見えなくなるまで何回も何回も手を振って見送りました。私にはその母の周囲が急に明るくなり、まるで後光が差したように見えたことを、いまも鮮明に覚えています。
…常識が通用しない広島拘置所の実態
…戦後、私たちの家族も生きていくのに必死でしたから、私は小学4年生から卒業までは板材の運搬、中学校の3年間は新聞配達をしながら家計を支えました。中学を出れば当然自立が必要と思い、広島市内の製パン工場に就職しました。
…パン屋の一日は午前4時から配達が始まり、餡やクリームの加工、集金、空箱の回収などを行い午後5時頃に業務終了となります。その後、夜間高校に通い始めた私にとって、労働から解放されて午後11時頃まで勉強する生活は体力的にも苛酷なものでしたが、父に教えられた「三勤」を心の支えとして頑張ろうと覚悟を固めました。
…ありがたかったのは、私がパン販売の得意先を拡張しようと行動を起こした時、夜間高校の年長の同級生が自分の会社や官公庁、学校、病院などの売店を紹介してくれ、そのおかげで売り上げを大幅に伸ばすことができたことです。その新規取引先の中に広島刑務所の売店があり、これが後に刑務官の仕事へと繋がっていくのですから、縁は本当に不思議なものです。
…パン屋と広島刑務所の集金を巡る面倒なトラブルを解決したことで信頼を得ていた私に、ある時、「あなたのような人に刑務官になってほしい」と広島刑務所から声が掛かりました。身分的にも経済的にも安定した仕事を求めていた私はパン屋の社長とも相談し、刑務官になる道を選びました。最初は拘置所の雇い人という立場でしたが、その年の採用試験に合格し無事に刑務官を拝命することができたのです。昭和37年3月、私が21歳の時でした。
…ところが、喜びも束の間、私は最初の配属先である広島拘置所でとんでもない事態に直面することになります。当時、広島拘置所には抗争事件で殺気だった暴力団関係者が次々に送り込まれていました。一方、焦土化し物資や人手が不足する広島で、突貫工事で建てられた拘置所は極めて脆弱であり、独房も少なく、抗争事件の当事者であるヤクザを分散して収容することすら困難でした。
…このため圧力に屈した職員がヤクザの言いなりになったり、密通者になったりする無法地帯と化していたのです。舎房の通路は暴力団関係者が闊歩してたむろし、とても職員一人で対応できる状態ではありませんでした。
…当然、彼らは私にも脅迫的な言葉を浴びせ続けましたが、この程度の暴言は吐くだろうと腹を括って対処していたので、怯むことはありませんでした。仕返しを恐れてヤクザの肩を持ち、「いらんことをせんでくれ」と逆に私を窘める腰抜けの幹部ばかりであることに言葉を失いましたが、私はヤクザと取っ組み合い、組み伏せてでも絶対に妥協はしませんでした。
…結果的に広島矯正管区の特別監察を願い出、幹部総入れ替えを図ることで正常化の道が開かれましたが、いまでは他の職場では得られないよい勉強をさせていただいたと感謝しています。矯正職員にこそ人間力が必要だと強く思うのも、この体験によるものです。
…私は多くの受刑者の処遇に当たってきましたが、とりわけ心に残っているのが、Sという私よりも5歳年下の男のことです。
…昭和40年4月10日の午後10時30分頃、A刑務支所拘置監から「死刑判決を受けた被告人が逃走した。逃走者捜索のため、警備応援の準備をして待機せよ」との第一報が入りました。これがSとの出会いの始まりです。
…Sはこの夜、A及びF市内で強盗など3件の重罪事件を起こし地域住民を震え上がらせましたが、翌朝6時過ぎ、ダブダブの学ランに身を包み学生に扮して逃走中のところを捜索に当たっていた警察官に見破られ、多数の警察官によって捕縛されました。
…護送車両が拘置所に到着すると、初めに機動隊の服装をした警察官8名が下車し、乗降口の両サイドに4名ずつ分かれて人垣をつくり、その間を後ろ手錠姿のSが警察官に連行されてきました。私は、その護送警備体制の厳重な様子から、Sの尋常ではない凶暴性を感じ取ったのでした。
…入所手続き中、Sは殺気立って全身を激しく揺さぶり、警察官の制止を振りほどいて立ち上がると、我々に唾を吐きかけ、続いて体当たりを仕掛けようとして、これを制止されると辺り構わず周囲にある物を蹴散らしながら「なめるなー!」と怒鳴り散らす狂乱状態となりました。
…この時の怒り狂ったSの怒髪天を衝く形相はまさに鬼、猛獣そのものでした。これがSとの出会いであり、生きた鬼に出会ったのは後にも先にもありません。
…期せずしてSの処遇は私が受け持つことになりました。普通、これだけの凶悪犯であれば、手錠を掛けて房に入れておくことだけを考えるものです。しかし、私は刑務官として人を甦らせるにはどうすべきかを自問自答し続けました。
…その結果、刑務官は法に基づいて職務を執行することが大前提ではあるものの、相手の心の動きをしっかりと掴み、どのような人間でも同じ人として惻隠の心を持って接し、魂を込めて処遇に当たらねばならないと考えました。
…自分の罪を心から悔い、被害者に謝罪の気持ちを持たないままでは、Sにとって何のための人生だったか分かりません。刑死するまでの残り少ない人生を、この広島拘置所で過ごさなくてはいけないSが、まずはどうしたら心を開いてくれるかを四六時中考え続けました。そして、誰より私自身が自らの意思で実際に行動してみる躬行実践以外の方法はないとの結論に達したのです。
刑務官として第一線で活躍していた頃(前列、中央)
…拘置所でのSは、ある時から食事を摂ることを拒み続けました。絶食して体調を崩し、病院に運ばれる隙を狙って逃走しようという意図は明白でした。5日が経過し、食事を摂らないこともそろそろ限界ではないかと思われたので、その日の夕方に立ち会った際、私は次のように話しました。
…「Sよ、意地を張るのもいい加減にしないと、自分が勝手に絶食して衰弱しようと病気になろうと、国はおまえのような凶暴な人間を外の病院に連れていくことは容易にしないぞ。おまえが外での治療を狙って逃走しようと思っているのは見え見えじゃからやめとけ。これ以上、食事を拒むなら手錠は緩められず、そのままでも食事ができるよう、むすびをつくって用意しなくてはならない。きょうの夕食が判断の分かれ道になる」
…そう言って房から出て観察を続けて10分ほどが経過した時です。「ごちそうさまでした」というSの声が房内から聞こえるではありませんか。私は看守と顔を見合わせ、思わず顔をほころばせました。すぐに視察窓から房内の安全を確認して扉を開け、Sに対して「食べたか!」と声を掛けると、Sは気恥ずかしそうに目を細めて笑顔をつくりながら「長い間、すみませんでした」と我々に初めて言葉を発しました。
…Sが心を開きかけたと思った私は、「よし! それでいいんだ。人間は悪いことをしたらすぐに謝る。親切にしてもらったら、ありがとうございますと感謝の気持ちを表すのだ」と伝え、革手錠を両手後ろに戻し、管理部門事務室に引き揚げました。
…Sの心情が安定したため早速、逃走事件の取り調べが集中的に行われるようになり、それまで分からなかったSの養育状況が次第に明らかになっていきました。
…Sは、女子受刑者の収容施設であったB刑務支所に収容されていた母親から出生し、監獄法に基づく携帯乳児として1年間、この刑務所内で母親に育てられたのです。
…その後、祖母に引き取られて養育されましたが、生活苦から学校に行くことができず、十分な教育を受ける機会には恵まれませんでした。こうした養育状況からSは文盲となり、社会常識が乏しいまま年齢を重ね、正業にも就けず、年老いた祖母を養うために盗みなどを繰り返し、少年院や刑務所を出入りすることになりました。
…しかし、全く罪の意識を感じることはなく、自分を捕らえ裁く側の人間を逆恨みするばかりで、起こす犯罪も次第に凶悪化していきました。検事や裁判官をいつか自らの手で殺害する。Sの頭の中はその一念だったのです。
…そのSに私ができることは毎日30〜40分の運動の時間の一部を利用して、人間としての心を持たせる働きかけを行うことでした。
…ちょうどSが運動に参加を許されるようになったばかりの頃のことです。私が大きな声で「S、おはよう」と挨拶したところ「おはようございます」と返事が来ました。「よい返事をしたな」と話すと、「そりゃ、先生が大きな声でおはよう言うてくれたけんよ」と照れ臭そうに答えます。
…私は彼の挨拶を褒めながら地面に「挨拶」という文字を書き、「これは心を開いて相手に近づくという意味だ」と説明しました。その上で「何かしてもらったら、必ずありがとうございますと感謝の気持ちを表すのだよ」と伝えました。
…興味を示して聞き入るSに「私の話についてこれるか」と質問すると「お願いします」の力強い返事。心を開いた、との感触を得た私は、部下の刑務官と一緒に文盲のSに読み書きを教えるようになりました。せめて本や新聞が普通に読めるようにしてあげたいと、毎日の運動時間中、地面に漢字を書き示しながら読み方や意味を教える毎日がスタートしたのです。
…特に、「人」や「命」という字を教える時は、命の尊さや人間の生きる意味を理解させ、人としての道を外さないように生きることが大事だと考えました。
…「人という字は、2人の人間がお互いに寄り添い、支え合っている形を表している。また、人の間と書いて人間という。これは人は人々の間でしか生きられないことを意味している。人間は人を幸せにするために、尊い命を授かってこの世に生まれているのだから、どんな人とでも仲よくし、支え合って生き抜くことが大切なのだよ」
…私がSに話した言葉の多くは、私が幼少期に両親に教えられたものでしたが、Sの表情は日に日に明るくなり、運動時間に私の姿を見つけると、まるで小犬が飼い主にじゃれつくように喜んで寄ってくるのです。
…ある時、S自らの戒めと被害者の供養のために「般若心経」の写経と読経を勧め、それを日課とするようになったこと、さらに自分の罪深さを自覚し被害者の命日には必ず教誨師の読経を願い出るようになったのも、忘れ得ぬ出来事です。その頃のSの行状は模範囚のように落ちついていました。
…このように運動の時間を利用してはSに人として生きる上で大切なことを教える毎日は、広島刑務所への転勤によって私が広島拘置所を離れる昭和44年4月まで続きました。
…私が広島矯正管区に赴任したのは、Sと別れて6年後の昭和50年4月。その約3か月後、管区長から突然呼び出しを受けました。管区長室に入ると、管区長と広島拘置所の所長が応接ソファに着座していて、テーブルの上に置かれた白い封筒が目に入りました。
…思わず「あっ!」と声が出ました。Sに対する死刑が執行されたことを直感したからです。
…「執行が、ありましたか……」と尋ねると、広島拘置所の所長が「立派な最期でした。それをあなたに報告に来ました。これを読んでください」 と言って白い封筒に入った一通の遺書を私に差し出しました。
…それは紛れもなく、かつて私が広島拘置所で処遇をしたSの手により認められた遺書であり、私は震えながら読み始めました。
…まず驚いたのは、あの文盲だったSが書いたのかと思うほど、美しい毛筆の文字と洗練された文章だったことです。その遺書は被害者への謝罪から始まっており、「自分の教養の無さと、身勝手から、取り返しのつかない苦しみを与えてしまいました。私を八つ裂きにされても、お怒りは収まらないと思いますが、どうかお許し下さい」と悲痛なまでの悔悟の念が綴られていました。
…中ほどからは私に対して、
…「毎日、毎日亀井先生に会うのが楽しみで、今日は何を教えてもらえるのか、どんな話を聞かせて貰えるのかと、わくわくしながら運動に出ていました。夜、部屋ではお父さんがいたら、あんな優しいお父さんだっただろうかと考え、夢を膨らませて、生きることの幸せを実感していました。
…亀井先生。本当にありがとうございました。世の中でもっと早く先生にお会いしていたら、私の人生は変わっていたでしょう。沢山の心の宝を頂いたのにもって行けず、お先に旅立つことをお許しください」
…と、本心から感謝の気持ちを書いてくれていました。
…最後に、「祖母ちゃんに、養育してくれた感謝の気持ちとして、『体をいたわり、長生きしてください』」……ここまで涙を我慢して読んできましたが、次の一行で一気に涙が溢れ出ました。
…それは、刑務所で自分を産み、養育もしてくれなかった母を憎みに憎んでいたSが、その母に、
…「人の愛、生きる幸せを実感できる命をくださってありがとうございました。そんなお母さんを悲しませてすみません」
…と感謝の極みともいえる言葉を書き綴っていたからです。これが仏様の慈悲であり、悟りきった者のみが表現できる愛なのだと感涙に噎びました。
…この遺書を読みながら、私は矯正という仕事の崇高さを実感すると共に、矯正職員たる人が収容された受刑者に対して働きかける処遇の原点を掴んだような気がしました。どんな罪を犯した者でも人間の心を持つ限り、何らかの感動、きっかけを掴ませたら必ず立ち直る、絶対に諦めてはいけない。そう強く確信したのです。
横浜刑務所長として強固な精神力、優しい心を兼ね備えた矯正職員の育成に尽力した
…私が長年の矯正人生を通して思うのは、犯罪の撲滅の原点は、いかに命の尊厳を教え、理解させるかだということです。そして、その時期が早ければ早いほどいいのです。
…それは私の経験を通しても言えることです。信仰深い父の生き方や教えによって、また原爆被爆者に接する母の神々しい姿を通して命の尊厳を学んだのは、まだ小学校に入る前の幼少期でした。そのことは私自身の人格形成のベースともなっています。
…昔から「三つ子の魂百まで」と言われ、江戸時代には寺子屋で『論語』などを教えたというのも、そういう知恵を先人たちが持っていたからこそでしょう。特に親子の間でそういう教育が広まっていくとしたら、犯罪は大きく減っていくのではないかと思います。
…いま時代が変わり、拘禁刑を受けた被収容者にも教育を受ける環境が整えられてきました。しかし、私は単に知識を植えつけるだけでいいのかという疑問をずっと持ち続けています。というのも、被収容者は出所後、厳しい社会の荒波の中で再び生きていかなくてはいけないからです。人間として生きる基準、人間力がなかったら、いくら知識を身につけても幸せにはなれないのではないかというのが私の正直な思いなのです。
…だとしたら、たとえ拘置所という苛酷な環境にいたとしても自分自身、あるいはお互いを大切にしながら生きること、人間の幸せ、命の尊厳性などについてしっかりと伝え、その一歩として日々の労働などを通して自分の責任をきちんと果たすことの大切さを教え込むのが矯正職員の役割なのではないでしょうか。
…私は子供の頃、父から「人間は皆、それぞれの分野で果たすべき責任(使命)を背負ってこの世に生まれている」と教えられました。Sに対しても、そのことを信じて真摯に向き合い、結果としてあの荒々しく猛々しかったSがここまで神々しくなれるものかと思うほどの変化を遂げてくれました。
…父のその教えは、人を教える上で忘れてはならない大切な要諦でもあるといまも思っています。
…以上、「致知」5月号…特集 人を育てる 体験的教育論 「我が矯正人生」からのご紹介でした…
…環境が人を育てるという言葉がありますが、まさしくこの記事の「S」が温かい家庭環境に育っていたら、まったく異なる世の中に有意な人間の一人に数えられていたように思えてなりませんね…
…ということで、三重・和歌山・奈良の旅、三日目を報告するには、過去ナンバーワンの長すぎるブログになりそうですから、今回はここまでにしましょう…
…旅の報告は、明日のブログ(その138)へと委ねます…
…それにしても、この記事、ジーンと胸に響きますね…
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